『ぼぎわんが、来る』

小説(ホラー)『ぼぎわんが、来る』澤村伊智著 角川ホラー文庫 平成30年2月25日初版発行 平成30年10月30日7版発行
平成31年1月1日(火)読了

(注意!)ネタバレあり 中島哲也監督『来る』のネタバレもあり

先日映画館で観た中島哲也監督の映画『来る』の原作小説。
小説と映画でオハナシの大筋は大体一緒だけど、細かいところはだいぶ違う。小説の重要な部分をばっさりカットしたり、逆に小説にまるで出て来ないエピソードを付け加えたり、小説のクライマックスの見せ場を映画的にド派手にしたりしている。全体的には小説を生かしつつも、中島哲也監督らしい強引さで自分の世界に小説世界を取り込んでいる。それはむしろアッパレだが、見方を変えればまるで別の作品とも捉えられる。
以下、原作小説と映画を比較しつつ感想を書いていく。

小説は、全3章の構成。いずれも一人称だが、語り手が違う。
第1章「訪問者」は、主人公の会社員・田原秀樹。この一連の怪異のそもそもの発端。小説、映画とも化け物と対峙するシーンで始まり回想が綴られていく。やっぱり映画もここを起点としてか。掴みとしては理想的。
映画では意味ありげに登場した秀樹が少年時代に出会った少女は原作ではまるで出て来ない。あとは大体同じ。自称イクメンで妻と娘を愛していると思いこんではいるけれど、実質的には空回りしている男・秀樹が描かれる。映画の方がもっと辛辣に描かれていたか。
ただ、家族を守るため命を賭けて、死んでしまうのだから、そんなに酷い男と言い切れない。
第2章「所有者」は、秀樹の妻・香奈の視点からの語り。秀樹の死後から始まる。秀樹の欺瞞が暴かれていく。香奈の実に手厳しい言葉の数々。映画だと、香奈自身も結構酷い女性に描かれている。児童虐待寸前なかんじだし、ヒステリックだし、秀樹の知人の民俗学者・唐草とセックスしたりする。原作ではそこまでの関係にはならない。その代り唐草は原作では怪異を呼び寄せる役になっている。もうひとつこの人物が上手く描けていない気がする。
香奈に関しては、映画の方がもっと露悪的で辛辣に描かれるし、原作では生き延びるのに(一時的に記憶を失うが)映画ではあえなく死ぬ。
第3章「部外者」は、一連の怪異に首を突っ込むことになったオカルト・ライター野崎の語り。この人物も映画の方が、エグい感じになっている。態度や言動も粗暴な感じ。原作で「小ぎれいな格好をした、線の細い男」とあるのとはだいぶ違う。中島哲也監督は全体的に人間描写がキツイ感じだ。実はホラーとかはそう興味がないほうかも。

原作小説と映画のいちばんの違いは、タイトルから「ぼぎわん」が消えていることだろう。これ、重要なポイントだと思う。実は、ぼぎわんという言葉の語源は、西洋のブギーマンにあるというのだ。これ、バッサリ切ったのは何故だろう。
勿論、ブギーマン自体が海を渡って来たのではなく、そういう概念が日本に伝えられ、民間伝承にある「名状しがたきもの」の名前になったということらしい。
そして、ぼぎわん=ブギーマンは、子どもや老人をさらっていく存在なのである。恐ろしいのは、それが招かれざる存在ではなく、むしろ必要悪として待望される存在なのである。子殺しや姥捨ての暗い記憶が底にはある。
実は、ぼぎわんを招いたのは、秀樹の祖母(夫の暴力に苦しんでいた)の魔導布だったということが明かされる。映画にはこのくだりは全くない。

小説、映画ともにクライマックスは化け物と霊能力者・比嘉琴子の対決である。もっとも小説が琴子ひとり(厳密に言えば野崎も協力する)が能力を発揮するが、映画の方は全国から霊能力者がたくさん集まって来て大対決になるという実にハッタリの効いたものになっている。原作では途中で殺されてしまう中年女性の霊能力者逢坂勢津子も映画ではまで生きていて参加する(柴田理恵、怪演)。派手なのは結構だが、琴子の生死がよく分からかったりするのでスッキリしない。小説の方がこじんまりときちっと締め括っていていい。
それにしても、小説で比嘉琴子が出て来るシーン、台詞を喋るシーンを読んでいると、映画で演じた松たか子の顔と声が浮かんできてしょうがない。恐るべき強烈なインパクトというほかない。
妹の真琴も小松菜奈の顔を思い浮かべてしまう。不思議だ、他の登場人物にはそんなことないのに。

小説も映画もそれぞれに狙いが違って、それぞれ面白いというのは珍しい。傑作である。両方とも。


ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)
KADOKAWA
2018-02-24
澤村伊智

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