『野菊の如き君なりき』 恋の呪縛

映画『野菊の如き君なりき』

(注意)ネタバレあり

(つづき)
この映画で最もユニークなのは、60年前の回想シーンが楕円形の画面という枠の中で繰り広げられること。老人・笠智衆のいる「現在」は普通の画面なのに。
恐らくノスタルジックな効果を狙ったものと思われる。古い写真のアルバムなんか見ると、こういう楕円形の構図ののものを見ることがある。それに倣ったものか。
ただ、ノスタルジックと言っても、美しい思い出ばかりではなく、むしろ悲しく辛い思い出が描かれるというのが、この映画の皮肉なところ。

親に決められた相手と結婚した民子(有田紀子)は、子供を身ごもるが流産、体を壊し、実家に帰される。そこで病が重くなり、遂には死んでしまう。ハッキリとした時期は分からないが1年ぐらいの出来事か。
そういった事情をまるで知らない中学生の政夫(田中晋二)は、ある日突然、母(杉村春子)から「スグカエレ」の電報を貰い、実家に帰るが、母は直ぐには何も言わない。「先に食事をしろ」というばかり。で、食事をしていると、兄(田村高廣)が、ぶっきらぼうに「民子、死んじゃったよ」と言う。この辺が上手い。母ではなく、兄にこの事実を言わせるというのが。
結局、中学校に行ってから政夫と民子は一度も会うことがなかった。正月に帰省した時も周囲が会わせなかった。病の床にいたのも知らせず、臨終にも立ち会うことがなく、永久の別れとなった。
臨終に立ち会った政夫の母(民子から見れば伯母)が、臨終の様子を語る。ここがまた回想シーンになる。つまり、回想シーンの中に回想シーンがあるのである。杉村春子、浦辺粂子、有田紀子の演技の見せ場で、ここはもう泣けて泣けてしょうがなかった、比喩ではなく、本当に涙がこぼれた。
物語としては、臨終の席に政夫を立ちあわせた方が、普通は盛り上がるのだが、敢えてそれをしなかったのが逆によかった。政夫は当事者なのにずっと民子から遠ざけられているのがむしろ二人の哀れを誘う。

民子の葬儀のシーンはない。その前に「村の嫌われ者」だった男の葬儀(野辺送り)シーンがあったので、そっちで大体この村の葬儀の様子は分かるので割愛したか。こういうところが、この映画のユニークなところ。もっとお涙頂戴になるかと思うと、あまり執拗に押してこない。感情に溺れない理智的なものがある。

そもそもこれは若くして病で死んで可哀想な少女を描く「難病」映画ではなく、封建的な家族および無理解な周囲の人々によって破滅していった少女の物語なのである。いや、それも少し違うか。「子どもは恋などするな」「親の言うことを聞け」「世間体を考えろ」「我慢しろ、妥協しろ、辛抱しろ、みんなやっていることだ」という声に屈して、望まない結婚をしたものの、心は常に恋する人だけを思いつめていた少女の過激な反抗の物語なのだ。
恋心だけは誰にも奪われないことを証明し、恋に殉死した。

だが、政夫がそれほどの相手だったかには疑問もある。ここで描かれる政夫はまるで子どもで実に頼りない。彼も民子のことが好きなのは確かだが、温度差がありすぎる。激変する民子の人生に比べると、単に中学生活を普通に送っているだけ。全然魅力的ではない。
でも、民子には政夫しかいなかったというのも分かる。幼なじみでいとこで、昔から親しかったし、他に付き合うような人がいなさそうな村暮らしだし。民子も女学校に行けるような境遇ならもっと視野が拡げられて、更に先の未来もあったろうに、政夫なんかより素敵な人にも出会えたろうに。だが、この時代のこういう少女にはそれは叶わぬ夢。臨終のその時まで手に政夫からの手紙とリンドウの花を握っていたというのが哀れ。
ちなみに何故リンドウかというと、かつて政夫に「民さんは野菊のような人だ」と言われ、「政夫さんはリンドウのような人」と返したことがあったから。

政夫及び民子の一族が没落して今や見る影がないというのは、若くして無念な思いで死んだ呪いか。まあ、それはないとは思うが、政夫の心を60年経った今でも民子の恋の思い出が呪縛しているのは間違いないだろう。
老人である政夫が民子の墓を訪れるところで映画は終わる。

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