「谷崎潤一郎フェティシズム小説集」 きれいなものと穢(きたな)いもの

小説(短編集)「谷崎潤一郎フェティシズム小説集」1910年~1925年 谷崎潤一郎著 集英社文庫 2012年9月25日第1刷
2012年10月24日(水)読了

集英社文庫からは2年前の9月に「谷崎潤一郎マゾヒズム小説集」が刊行されている。私も買い求めて読み、感想をこのブログに載せたことがある。で、今回は二年ぶりに「谷崎潤一郎フェティシズム小説集」が発売され、当然ながら買い求めて読んだ。
短編が六つ入って200ページほどの薄い文庫なのであっという間に読めてしまうが、どれも傑作なので非常に満ちたりた読後感に浸ることが出来る。もちろん1910年(明治43年)から1925年(大正14年)までの間に発表された谷崎の初期の作品群なので後の作品のような文学的完成度には欠けるきらいはあるが、粗削りな面白さに溢れている。通俗さを恐れない谷崎の勇猛果敢な姿勢に感服する。
個々の作品について感想を書いておく。

「刺青(しせい)」1910年(明治43年)
谷崎の記念すべきデビュー作。タイトルは「いれずみ」ではなく「しせい」と読む。

「それはまだ人々が「愚」(おろか)という貴い徳を持っていて、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」(9ページ)

というあまりにも有名な書き出しから始まる美しい物語である。

「当時の芝居でも草双紙でも、すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。」(9ページ)

美しい者はより美しくなろうとして競うように刺青師(ほりものし)に刺青を入れてもらった、そんな美しき古き良き時代。ここで描かれるのは、若き刺青師の男が永年追い求めていた理想の女に出会い、その女の背中に女郎蜘蛛の刺青を彫り込む顛末である。
男性マゾヒストの真摯な心情がストレートに伝わってきてマゾヒストでない人間でも共感してしまう見事な物語。今読むといささか大時代で芝居がかりすぎている気がするがそれも狙いか。女郎蜘蛛の刺青というのはあまりのもストレートすぎて笑ってしまうが。
昔読んだときはラストの女のセリフ「お前さんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」(21ページ)に妙に白けた感じを受けたが、今回はさほど引っかからなかった。このセリフの前に男のセリフがあり、それに呼応していることを再認識したからだ。

「おれはお前をほんとうの美しい女にするために、刺青の中におれの魂をうち込んだのだ、もう今からは日本国中に、お前に優(まさ)る女はいない。お前はもう今までのような臆病な心は持っていないのだ。男という男は、皆なお前の肥料になるのだ。・・・・・・」(19ページ)

何という名セリフ。女尊男卑の思想がこれほど的確に表れたものはない。そして、マゾヒストの決意表明とも受け取れる。男の恐ろしさを感じさせる。

「悪魔」1912年(明治45年)
巻末にある千葉俊二の「解題」によれば、この作品について谷崎は、

「『悪魔』を書いたら、穢(きたな)いと云って攻撃された。耽美派の一人なるが故に、きれいな小説を書かねばならないのなら、私は『耽美派』という呼称を呪いたく思う」(「羹(あつもの)前書」)

と書いているという。谷崎には悪いが確かに攻撃する人が言うように穢い。「刺青」が、いかにも芝居じみて観念的な美の世界だったのに比べて、こちらは現実的でまさに身も蓋もない醜悪さがある。「刺青」同様、こちらもマゾヒストの話なんだが、好きな女が置き忘れた手巾(ハンケチ)に残った女の洟(はなみず)を「犬のようにぺろぺろと舐める」男が主人公で、しかもその様子がリアルに描かれるのでさすがにげんなりする。「謎の彼女X」の少女の涎(よだれ)は十分許容範囲なのだが、洟は無理。ちょうど100年前の作品だが、100年たってもやっぱり穢いものは穢い。でも攻撃する気にはなれない。こういうものを書いてしまう谷崎の文学的野心をむしろ好ましく思う。一筋縄ではいかない作家である。

「憎念」1914年(大正3年)
「私は「憎み」という感情が大好きです。「憎み」ぐらい徹底した、生一本な、気持ちのいい感情はないと思います。人を憎むという事は、人を憎んで憎み通すという事は、ほんとうに愉快なものです。」(63ページ)

この作品の出だしの文章である。谷崎の作品は内容の面白さももちろんだが、文章の上手さも抜群である。非常に平易で読みやすい文章で難しいところなんか一つもない。通俗的ともいえるが、一人悦に入っている文章に比べてはるかに優れているといえる。
この作品はこの出だしからわかるように「憎み」という感情がもたらした出来事を描いている。この本の短編のなかで唯一女性のからまない作品でその点が逆に目を惹く。
どうして他人に対して悪い感情を抱いてしまうかをフェティシズムの観点から解き明かそうとしてみた興味深い作品といえる。
作品のラストの文章。

「「恋愛」と同じく「憎悪」の感情は、道徳上や利害上の原因よりも、もっと深い所から湧いて来るのだと思います。私は性慾の発動を覚えるまで、ほんとうに人を憎むという事を知りませんでした。」(79ページ)

「富美子の足」1919年(大正8年)
この短編集随一の傑作。若い女の足の魅せられた老若二人のマゾヒストの話。
手紙の文章という設定に加えてメタフィクション的仕掛けもあり、小説の技巧的に非常に手が込んできた、という印象を受ける。中身のほうもマゾヒストを二人出して、若者のほうの視点から老人の行為を見るという風にしているので話にふくらみが出来てきている。
「悪魔」ほど生理的嫌悪感を催すことなく、読んでいるうちにマゾヒストの気持ちに何だか共感できるような気分になってくる。いかにもありえないような話がありえる話に思えるだけの説得力がある。女の足で踏まれてみたい、とつい願望を抱かせるまでになる。これがすぐれた作品であるという証明だろう。
それにしてももうすぐ絶命という臨終のときに顔を足で踏まれたいとは何という素晴らしい発想だろう。これが読む者の心を打つのはそれが付け焼刃の発想ではなく、谷崎の真摯な思いからものだということが察知されるからである。
ちなみにこの小説は二年前にドラマ化されている。富美子は加藤ローサが演じた。私も観たのだが、なかなかよくできているのではあるがやはり原作には及ばないというか別物だろう。加藤ローサもいいのだが、原作のような富美子の酷薄な感じは出ていなくて可愛いだけのように思えた。まあ、これは好みの問題ではあるけれど。いま、再度ドラマ化するんだったら橋本愛が一押し。年齢的にもいいし、美人だし、足はきれいだし、酷薄そうだし文句なし。
もうひとつちなみに富美子(ふみこ)という名前は、「踏み子」からきているのだろうと推察される。

「青い花」1922年(大正11年)
十代の若い愛人に入れあげる中年男の話。永年の「歓楽と荒色の報い」で身も心もボロボロになった男とおしゃれ大好きで金遣いの荒い女の対比が面白い。銀座や横浜でのショッピングの様子が事細かく描かれているので時代風俗を知る上でもとても興味深い作品になっている。大正時代にこんな贅沢な生活をしていた人たちがいたんだ、という新鮮な驚きがある。
それにしても、1922年(大正14年)の読者は、作中に出てくるアクアマリン、ショオ・ウインドオ、エキゾティック・ビューティー、フランネル、エクスタシー、ペティコートなんていう外来語をみんな注釈なしで理解できたのだろうか。アーサー・ボン、レーン・クロフォード、コットン・ボイルなんて固有名詞はどうだろう。
それにしてもこの時代にすでにこんなにも貪欲に欧米のものを取り入れていた国なんだな、日本は。
この作品の登場人物たちは知る由もないが、この次の年、関東大震災が発生し、東京・神奈川は未曽有の被害を受ける。このふたりはどうなっただろうか。

「蘿洞(らどう)先生」1925年(大正14年)
これもマゾヒストの話だが、それが分かるのは小説のラストの方。マゾヒスト側からではなく、関係のない第三者から垣間見たSMプレイが描かれているのがユニーク。少し自虐的というかセルフ・パロディの趣きもある。
「耽美」とか大仰にいうけれど、他人から見れば単なる変態行為なんだよ、と言っているようで期せずしてこの短編集のいいオチになっている。
谷崎潤一郎フェティシズム小説集 (集英社文庫)
集英社
2012-09-20
谷崎 潤一郎

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