「荒野の狼」 次の戦争は、熱心に準備されている
小説「荒野の狼」1927年 ドイツ ヘルマン・ヘッセ著 手塚富雄訳 集英社 世界文学全集第20巻(トーマス・マン ヘッセ カロッサ) 1966年7月28日発行
2011年3月6日(日)読了
再読。といっても前に読んだのは高校生のころだったから、かれこれ35年位になるか。当然のことながらどんな内容だったか、全く覚えていない。面白かったのか、つまらなかったのかさえ曖昧である。なんだか難しい小説だったなあ、というかすかな記憶があるばかり。
で、久々に読んでみたのだが、そんなに難しい小説ではなく面白く読んだが、複雑な読後感であった。
孤独な男ハリー・ハラーが失踪し、手記が残され、それを収録したという設定の小説だが、今となっては結構使い古された手法なのでいささか興醒めである。しかもそのハリー・ハラーが50歳手前の男というのが、作者のヘルマン・ヘッセと重なる。(この小説の発表年の1927年にヘッセは50歳)ついでに言えば、ヘルマン・ヘッセとハリー・ハラーはイニシャルが同じだし、数年内に離婚しているというのも同じ。私小説とまでは言えないが、作者のその時点の心境を反映しているように読むほうは想像するし、作者もそれを狙っているようだ。
僕も初読の時の17,8歳ではなく、ハリー・ハラーを追い越した53歳なので読んでいてこの主人公の心境が腑に落ちることが多く、興味深く読める。
ところが、この小説、なかなか一筋縄ではいかない。社会にうまく適応できない中年男(当時としては初老という感じか)の心境小説かと思っていたら段々ねじれて来る。
主人公が、夜の街で知り合った少女娼婦ヘルミーネとマリアと関係を持つあたりから変な感じになる。中年男と美少女の聖なる娼婦との組み合わせというのはあまりにベタすぎるのではないか。もろに中年の願望そのままだなあ、と呆れているとさらに変な展開になる。
魔術劇場と名付けられた不思議な場所に赴いた主人公は非現実的な体験を次々とする。少女ヘルミーネは何故かハリー・ハラーの少年時代の友人ヘルマン(!)になっているし、自動車と人間の戦闘は行われるし、ハリーは少年の戻り初恋の少女に再会し、さらには尊敬するモーツァルトにまで対面する。この幻想的シークエンスは、ヴァーチャルイメージ豊かでまるですぐれたアニメを観ているような面白さである。ヘルミーネを待ち受けている運命も実に意外だ。初恋の少女のくだりはヘッセの自己パロディか。
ただこれが単に色々趣向を凝らした面白い小説かというとさにあらず、非常に苦いものが後に残る。それは作中で何度も繰り返される「戦争」という言葉がもたらすものである。
前の戦争(第1次世界大戦)で世界に殺戮と破壊をまき散らしたのに今また次の戦争の準備をするものがいる、ということに心底ヘッセは憤っている。そして、自らの無力を感じ絶望している。というのがダイレクトに伝わってくる。ハリー・ハラーの口を借りてこういっている。
「絶望したわたしにはもはや「故国ドイツ」というものは存在しない、理想というものはない、そんなものはみんな第二の戦争を準備している紳士たちの装飾にすぎないのだ。何か人間らしいことを考えたり、いったり、書いたりしてもそれは無意義なのだ、思想を頭のなかに働かしてもむだなのだ。」(272ページ)
1927年(昭和2年)の段階で既にこれだけのことを考えていたとは驚きである。文学者の予見の力というべきか。しかし、結局そんなものは現実には何の効力もなかった。次の戦争(第2次世界大戦)は、前の戦争をはるかに凌駕する恐るべき殺戮と破壊の嵐であった。それを思うと、虚しい気持ちになる。
その虚しさもこの小説の魅力の一つである。
2011年3月6日(日)読了
再読。といっても前に読んだのは高校生のころだったから、かれこれ35年位になるか。当然のことながらどんな内容だったか、全く覚えていない。面白かったのか、つまらなかったのかさえ曖昧である。なんだか難しい小説だったなあ、というかすかな記憶があるばかり。
で、久々に読んでみたのだが、そんなに難しい小説ではなく面白く読んだが、複雑な読後感であった。
孤独な男ハリー・ハラーが失踪し、手記が残され、それを収録したという設定の小説だが、今となっては結構使い古された手法なのでいささか興醒めである。しかもそのハリー・ハラーが50歳手前の男というのが、作者のヘルマン・ヘッセと重なる。(この小説の発表年の1927年にヘッセは50歳)ついでに言えば、ヘルマン・ヘッセとハリー・ハラーはイニシャルが同じだし、数年内に離婚しているというのも同じ。私小説とまでは言えないが、作者のその時点の心境を反映しているように読むほうは想像するし、作者もそれを狙っているようだ。
僕も初読の時の17,8歳ではなく、ハリー・ハラーを追い越した53歳なので読んでいてこの主人公の心境が腑に落ちることが多く、興味深く読める。
ところが、この小説、なかなか一筋縄ではいかない。社会にうまく適応できない中年男(当時としては初老という感じか)の心境小説かと思っていたら段々ねじれて来る。
主人公が、夜の街で知り合った少女娼婦ヘルミーネとマリアと関係を持つあたりから変な感じになる。中年男と美少女の聖なる娼婦との組み合わせというのはあまりにベタすぎるのではないか。もろに中年の願望そのままだなあ、と呆れているとさらに変な展開になる。
魔術劇場と名付けられた不思議な場所に赴いた主人公は非現実的な体験を次々とする。少女ヘルミーネは何故かハリー・ハラーの少年時代の友人ヘルマン(!)になっているし、自動車と人間の戦闘は行われるし、ハリーは少年の戻り初恋の少女に再会し、さらには尊敬するモーツァルトにまで対面する。この幻想的シークエンスは、ヴァーチャルイメージ豊かでまるですぐれたアニメを観ているような面白さである。ヘルミーネを待ち受けている運命も実に意外だ。初恋の少女のくだりはヘッセの自己パロディか。
ただこれが単に色々趣向を凝らした面白い小説かというとさにあらず、非常に苦いものが後に残る。それは作中で何度も繰り返される「戦争」という言葉がもたらすものである。
前の戦争(第1次世界大戦)で世界に殺戮と破壊をまき散らしたのに今また次の戦争の準備をするものがいる、ということに心底ヘッセは憤っている。そして、自らの無力を感じ絶望している。というのがダイレクトに伝わってくる。ハリー・ハラーの口を借りてこういっている。
「絶望したわたしにはもはや「故国ドイツ」というものは存在しない、理想というものはない、そんなものはみんな第二の戦争を準備している紳士たちの装飾にすぎないのだ。何か人間らしいことを考えたり、いったり、書いたりしてもそれは無意義なのだ、思想を頭のなかに働かしてもむだなのだ。」(272ページ)
1927年(昭和2年)の段階で既にこれだけのことを考えていたとは驚きである。文学者の予見の力というべきか。しかし、結局そんなものは現実には何の効力もなかった。次の戦争(第2次世界大戦)は、前の戦争をはるかに凌駕する恐るべき殺戮と破壊の嵐であった。それを思うと、虚しい気持ちになる。
その虚しさもこの小説の魅力の一つである。
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