「ユリイカ ペ・ドゥナ「空気人形」を生きて」 情けなくて涙が出てくる

か雑誌「ユリイカ 詩と批評 10月臨時増刊号 総特集 ぺ・ドゥナ「空気人形」を生きて」 青土社 2009年10月25日発行 2009年10月13日(火)購入 シネマライズ2F売店にて 定価1300円
2009年10月31日(土)読了

雑誌は買っても全部は読まない。面白そうな所を拾い読みしておしまい、というのが普通だ。僕にとっては。ただこの「ユリイカ」みたいに全部がワンテーマで統一されているものは例外で最初から最後まで読まずにはいられない。
この一冊もペ・ドゥナについてより詳しく知りたくて買ってしまい、隅から隅まで読んでしまった。
ペ・ドゥナのインタビューや詳細なフィルモグラフィーは資料的価値があるし、他にもいくつか読める文章がある(松井周のとか)が、非常に低レベルな文章のおかげで全て台無しである。しかもそれが三つもあるのだ。あまりにひどいので記念としてそれらを晒しておこうと思う。

「「商品」のアレゴリー 「空気人形」論」北小路隆志
映画の批評なのにどういうわけか西洋人の文章の引用が多数ある。ジジェク、マルクス、ベンヤミン・・・。いまだに西洋人の御言葉を有り難がって文章を書くというのがなんとも情けなく悲しく泣けてくる。自分の言葉というのがない人なんだな。哀れ。
自分の言葉といえば、この人の一人称が実に変わっている。「僕」で始まった一人称が途中から何故か「僕ら」という一人称複数形になってしまう。実に奇々怪々である。
そもそも一人称複数形を文章に使う人の気持ちが僕には全く分からない。
文章の末尾の
「だから、僕らは本作を反ファンタジーの試みと呼ぶ。」
の僕らっていったい誰でどういう意味なのか。

「コスチューム・プレイヤーが世界を救う ぺ・ドゥナという身体とその機能」宇野常寛
これもひどい文章だ。
「おそらく、この映画はあるレベルでの失敗の生んだ良作だ。」(106ページ)
ってどういう意味なのか。さっぱりわからん。「空気人形」を安易だというのは大いに賛成なのだが、
「だが、当然のことながらこうした物語的な安易さをもってして、同作を駄作とするのもまたあまりにも安易だろう。」(101ページ)
というのは何故だ。何故、はっきりと駄作と言わないのか。この宇野常寛という人、この雑誌のペ・ドゥナインタビューも行っている。(中身のない上辺だけのひどいものだが。)そういう関係で編集部とのなれ合いではっきりとしたことが書けないのだろう。これまた泣けてくるような「大人の事情」である。哀れ。

「神と見紛うばかりの」横田創
この人の文章は別に泣けてくることはない。むしろ大いに笑わせてもらった。
「それにしてもわたしはなぜこんなことを、こんなに紙数を使って語っているのだろうか。なにが言いたいのだろうか。なにをそんなに語りたいのだろうか。」(124ページ)
知るか、である。この人のギャグセンスは凄い。
「ペ・ドゥナはペ・ドゥナであることでペ・ドゥナではなく、ペ・ドゥナではないことでしかペ・ドゥナであることはできない。」(127ページ)
ここまで来ると僕には理解不能だ。

1300円もお金を払ってこんな文章を読む羽目になった僕自身が情けなくて涙が出てくる。
北小路隆志、宇野常寛、横田創、この三人の文章はこれから永遠に読まない、買わない、近づかないようにしよう。



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