「澁澤龍彦映画論集成」 ゾンビの定義あるいは映画でひとを殺すこと

評論「澁澤龍彦映画論集成」2009年 澁澤龍彦著 河出文庫 2009年5月20日初版発行 
2009年6月30日読了 読書時間140分

この文庫は、「スクリーンの夢魔」(1978年)を母体として、新たに19編の映画論を加えたものであり、澁澤龍彦の全ての映画論・映画評を収録したものである。

「スクリーンの夢魔」はずいぶん愛読した本だ。残念ながら今は手放してしまったので、この文庫を書店で見かけたときは嬉しくてすぐさま買ってしまった。定価1050円。本の内容についてはもちろん素晴らしいが、この本の編集部に対してはいささか文句がある。それは「作品の初出一覧が付いていない」ということである。1960年代から1980年にかけて書いたとおぼしき映画論・映画評なのだが、具体的にいつどんな雑誌に掲載されたのかまるで表記がないのだ。こういうところで手抜きをするなと言いたい。こういう本には、初出一覧は必要不可欠であると考える。なぜなら書かれた年が分からないと頓珍漢に見えてしまう文章もあるからだ。たとえば、19ページの文章だ。

「モンスター映画によく登場するグロテスクな存在には、一度死んで墓に入り、魔術師の力によって生気を吹きこまれ、ふたたび墓を出てくるといわれる、ヴォードゥー教の「ゾンビ」がある。魂のない、死せるゾンビは魔術師にあやつられ、魔術師の意のままに、生きた人間を襲うのである。」

今の映画ファンの認識しているゾンビの定義とはまるで違う。だが、この時代(いつ?)は、正確な定義だったのだろう。そのへんが実に興味深いのだが、書かれた年が明記されていないので、どうにも歯がゆい。明記されていれば、「ああこの年にはゾンビというのはこういう風に認識されていたのか。」とはっきりわかるはずだ。古い文章を読む面白さというのはそういうところにあるはずだ。「永久保存版!」と帯で大見え切っているが、とんでもない話だ。重版からはぜひ初出一覧をつけていただきたい。

ちなみにゾンビの概念を変えたのはやはりジョージ・A・ロメロだろう。「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968年)と「ゾンビ」(1978年)が登場したことでゾンビの新時代がやってきたのだ。今の映画ファンが思い浮かべるゾンビとはまさにこのロメロ・ゾンビに違いない。

閑話休題。本の内容についてはいまさら細かく書いてもしょうがない気がする。久しぶりの再読だが、やっぱりすごく楽しく読めた。それは澁澤龍彦自身が楽しんで書いているからだ。そしてその文章を読んでると映画を観たくて堪らなくなる。ブニュエル、ベルイマン、フェリーニ、ヴィスコンティー、ヘルツォーク、「恋ざんげ」「恋人たち」「顔のない眼」といった澁澤龍彦好みの映画について語る時の舌舐めずりするような感触が実にいい。映画を観ることは人生の快楽であるということに改めて気付かされる。評価や鑑賞ではなく映画を楽しむこと、ストーリーよりもディテールに拘り、さまざまなオブジェに注目することを教えてくれる。淀川長治同様に優れた映画挑発者であると思う。ふたりともヴィスコンティーの「地獄に堕ちた勇者ども」と「家族の肖像」を愛しているという共通点もある。

最後に非常に印象に残った文章を二つ引用しておく。

「たとえば、人間の耳が聞くに堪えない不快な音、人間の目が見るに堪えない残酷かつ醜悪なイメージの、目まぐるしい交代によって、映画館の暗い観客席にすわっている人間たちが、次から次に、ばたばたとショック死するというような事態だって、決して考えられないことではないのである。」(47ページ 「ショックについて」)

「試写会を見終って、暗い夜道を歩きながら、わたしの友人がこんなことを言った。「車とクロロフォルムさえあれば、簡単に女の子が手に入れられる。そんなことは、僕だって、昔から考えていたことだよ」と。わたしもそれに答えて、「僕だって、何べん考えたか知れないよ」と言った。」(114~115ページ 「非社会的映画のすすめ W・ワイラー「コレクター」を見て」)

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